その先にあるものを探し続けることの意義

 オハ〜(オハイオ州の略)!ってか、オハイオ臭ってどんなニオイだよ。
♪くさいメシってどんな臭い 俺のノドチンコ カメ くさいメシってどんな臭い ユー ガッタ ノドチンコ カメ♪
は東京牛パラダイスオーストリアか。因みにパンチUFO氏(最近は声優とか役者扱いなの?)が大学の先輩って微妙に恥ずかしいぞ。彼の昔を知ってると特にな。よしだぶきみ女史と“お笑いキングアンドクイーン”で活動してた頃が懐かしい。


 オレが作った実家の店HPを視たということで、十年振りくらいで友人から電話があった。元々ブログはちょくちょく読んでくれてるし、数年に一回はメールの遣り取りもあったんだけど、ボクが突然東京を離れてしまったので少しビックリしていたし、何より電話なんかかかってきたのでオレが一番驚いた(笑)。お互い電話ってガラじゃないから。

 IT稼業ヴァリヴァリの彼は、HPの感想は程々に(笑)、Web2.0の本質は“どういう情報であるか?”という以上に“誰発信の情報なのか?”という部分が大きくなる(勿論、この場合の“誰”は匿名系のネット人格でよい)と力説した。これについてはボクが以前提示した「ネット人格としての説得力」(http://d.hatena.ne.jp/STARLESS/20050907),(http://d.hatena.ne.jp/STARLESS/20050908)を突き詰めていった思考であるといえなくも、ない。

 また彼は、ブログ的個人発情報に於いて受け手が特定のブロガー(発信元)へのアクセスを重ねる場合に、情報の量や質と並んで発信元への好き嫌いという感情的要素も非常に大きくなるのではないか、と言う。そして、ブロガーへの好き嫌い及び好感度合いの形成に於いては、斬新すぎる文法よりも分かり易くて独自性のある文体に依存するのではないかとも。

 この会話でボクと彼とは(マニアックな喩えで申し訳ないが)、オールザッツ漫才2004でのバッファロー吾郎のネタが前者であり、ケンドーコバヤシのネタは後者であるという見解で一致している。分かる人だけ笑ってくれればそれでいい。

 それと、去年のネタで恐縮だが「人気ブログのつくりかた」(http://d.hatena.ne.jp/STARLESS/20050131)でも言及している(実践はしていない)ように、小細工を幾ら弄したところで多くの人間の目に触れる機会が増えるだけ(それによって一時的にアクセス数を伸ばすことはできるだろうが)であって、そこから先、リピーターになって貰えるかどうかは文章としての第一印象に懸かっている。そう、この“文章としての第一印象”を左右するのが文章の“味”・・・つまり文体なのだ(と思っている)。

 ボクのブログはカテゴライズもままならないのに(ボク個人は音楽ブログだと言い張っているが)、全体に妙な統一感が漂っている(んだそうだ)のは、ボクの文体の独自性が解り易さを伴って良い方向に表れているから(なんだそうな)。当然、誰しも独自の文体は持っているとは思うが、そこに解り易さが無ければその独自性は伝わらないと言う。確かに、高校時代の硬い文章・文体を嫌い、やっとの思いでここ迄平易にすることに心を砕いてきた自分がいる。

 まぁそういう意味で、ボクのブログはなかなか興味深いコンテンツらしい(金を生む生まないはまた別の話として)。
「だから今後も書き続けろ!」
と彼は強く言った。それを聞いてボクは・・・鈴々舎馬風師匠が鈴々舎南プロヴァンス風とか鈴々舎地中海風とかに改名したら面白いなぁ、なんてぼんやり考えていた。なんじゃそりゃ。