とりあえず怒っとけ、猫ひろし

 珍しくテクノラティのブログ検索(ttp://www.technorati.jp/home.html)なんか覗いちゃったら、非常に不愉快な騒動を知ることになった。この件、暫くは上位にランクインしてると思うのでご自分で行って視て下さい。

 こんなコトでカウンタ廻したくないから意図的に伏字・当て字部分が多少ありますが全文読んで戴ければなんとなく解るように書いておきます。だいたい、ボクのブログなんて社会的地位ありませんケドね(ここもポイント)。

 なんというか、この直気賞作家(“キ”が違っている)の書いてること、論理が破綻しているとしか言いようがない。ツッコミどころだらけの怪文書紛いも甚だしい。このエッセイ(なんて言えるのかどうかすら疑問だが)の文面のみ(行間は読まないで、という意味です)を一言で斬るならば、

 禽獣を“飼う”という行為自体、そもそも“自然の生”などという幻想が介在する余地は無いし、ましてや歪曲した独善的論理を幾ら並べても無意味であり、より一般的な飼い主としての行動を選択することが常道であり、それに意を唱えるならばそれ相応の社会的・道義的責任に基づいて制裁を受けても已む無し。

 つまり「郷に入りては郷(not ひろみ)に従え」「てめぇらの血は何色だっ!」というコト。以上でボクの感情論(?)はお仕舞い。こっからは敢えて違った角度から考えてみることにする。ペットなんか飼った経験ないし、動物愛護も過剰になっちゃうとどうなんでしょうかね、というスタンスのボクだってこれくらい判るってコトで。

 結局この人がやってることを端的に表すと、他者の生命を己の一存で奪っている、と言える。

 ただ、ボクには理解できないことに、親猫にあたる3匹だけは“飼っている”というスタンスであるが、その子は“自分にとっての飼い猫”の範疇を出るから(なのだろう)、しかもそれをありえないような詭弁の弄し方で“社会に対する責任”と称して殺している。これは飼うという行為〜それが飼い主の御都合で結構というスタンスであっても同じ〜の資格以前の意識の低さの表れだ。連帯責任、監督不行き届き。

 そもそも“自然”を強調するが、地球規模で環境汚染が侵攻してる昨今ですよ。いい意味での御都合主義で「地球上にはもはや本来の自然なんか存在しない」という境地に達せていればこんなことしないで済んだろうに。根本的に自然じゃないんだから中途半端な自然意識は棄てて、反自然としての飼い主の行為を押し通すべきじゃないんですかね。

 また、
「もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。」
とか書いてる割には、殺すにしても崖から放り投げるという、限りなく“逃げ”に近い殺戮手段を用いている点も許し難い。全く持って仔猫の“生→死”と向き合っていない感があるからだ。なんて、ボクの本心(飽く迄も前述の感情論部分ですから)とは著しく乖離する過激表現なので誤解は避けたかったが、腹立ったのでつい書いてしまった。あと、これはもう難癖レヴェルだが、文章も無機質で人間味が感じられないのも気に入らない。

 んで、これだけ大きな波紋を呼ぶに至っているのは、奪っている生命が愛玩動物のものであり、しかも生まれたての生命であること。そして、それを行っているのが直己賞作家(“キ”が違っている)という文壇に地位ある作家(なんでしょ?オレ知らねぇけど)であり、それを掲載したのが○経新聞というこれまた一応社会的地位ある新聞の紙面であったという事実である。

 多分、既に一部の方は言及されてたりすると思うけど、突き詰めてある種ドライな視点から考えると一筋縄ではいかない問題(現実的に愛玩動物と家畜や実験動物の生命価値や倫理に不均衡があるという事や捨てること、保健所送りにして結局は殺しているということ等)という側面もあるかも知れないが、こういうことは“ある程度”感情的にならないと着地できないと思う。

 ボクの座右の銘である『劇場版 パトレイバー2』での荒川の科白
「だが、二本のテープが二本とも虚構だったとして、吹っ飛んだベイブリッジだけは紛れもない現実だ。違うかね。」
に擬えて(?)考えると、
「だが、仔猫殺しに論理的な破綻が無かったとして、読んだ我々が感じた不快感だけは紛れもない現実だ。違うかね。」
という結論が導き出される。

 最後に、表現者とメディアの見識(ってか普通の常識)の問題。人気実力があれば暴言吐いても許されると思ってる見当違いの拳闘一家と同じで、メディアを通じて言動・文章を発信すべきレヴェルの思考が働いていないのでないか。
「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。」
という冒頭の一文の後に
「世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。」
ですよ。“かもしれない”なんて推量で書いてるあたり、実際あんまし解ってないワケで。絶対されるって、絶対。

 しかし、やはり最終的に世に出した責任がある日○新聞は断罪されて然るべきではないだろうか。直輝賞作家(“キ”が違っている)先生様のエッセイだからと安易に載せたのだろうか?少なくとも一般人の投書でこの内容が書かれていたなら絶対に掲載なんかしてない筈(・・・だよね?)。

 某巨大掲示板なんかの書き込みじゃないんだし(受けた不快感は同レヴェルだが)、まかり間違ってもこんなのを“言論の自由”なんて片付けたりしたら、もうそんなの公共のメディアじゃねぇからな。公序良俗が前提なんだから。いいですか、“公序”の“良俗”なんですよ。言い訳効かないよ。社会的責任(百歩譲って道義的責任)ってヤツ。

ここで再び荒川の科白を流用する。
「だが、エッセイの内容が虚構だったとして、このような文章を掲載したことだけは紛れもない現実だ。違うかね。」

〜おまけ〜
 ネット視てたら
『仰天!子○を殺す女流作家と、それを載せる日○新聞』(伏字はボクが入れました)
と題した文章の最後に

「※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライ○ドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJニュースはライブ○アのニュース部門、ライブド○・ニュースとは無関係です。」(伏字はボクが入れました)

 なんて書かれてたのは流石に嗤えなかった。書かれてることは至極真っ当なんだけど、この内容にしてこの紋切り型の注意書き。まぁ、仕様なんだろうけど、でもこれじゃあね。関係ないけど女流作家って性差発言気味で嫌い。男流作家って言わないんだからさ。