冒頭文は三文エロ小説のにほひ(恥)

 襖の隙間から米子が覗いていることに気づいた民子は行為に没頭している体を装い、鬼頭翁に布団を被せて彼の視界を塞ぎつつ、勢いよく襖を開け放ってみせた。無論、米子に見せつけるためである。

 下半身に鬼頭翁の顔を埋めさせた民子は仰向けのまま米子を見上げる。物理的な視線の高低や角度としては米子が民子を“見下ろす”構図になっているのだが、実際のところは民子が米子を“見下して”いる。

 民子は鬼頭翁に金で飼われる玩具であり、同時に小滝や秦野の野望のための駒である。それは民子も理解はしているが完全には納得できていないのだろう。しかし、もはや民子には自由がない。あるとすれば、それは不自由という名の逆説的自由である。

 だからなのか、民子は何かと米子を攻撃する。無意識的・本能的に米子に精神的苦痛を与えることに歪曲した自由を見出しているからだろう。鬼頭翁に体を弄ばれている事すら、それを謳歌するための口実であるが如く。

 民子は本当に“強い女”なのか?ボクにはまだ、そうは見えてこない。否応無き現実という苦痛からの逃避のために目的を摩り替えているようにしか・・・。

 後半、米子に馬乗りになる民子。罵倒するでもなく、諭すように哀れむように米子に語る訳だが、昔聴いたブルーハーツの曲じゃないが、弱い者が更に弱い者を叩く、まさにそんな感じがした。

 でもこのシーンは結構好きだ。宮大工の軸組工法で組まれた古い建築物を少しずつガタつかせてゆくように、米子の世界観・価値観を緩やかに否定していく民子。

 或る種の信頼関係の上で精神の崩壊と再構築を行うSMがルールに基づいた格闘技だとするならば、民子が米子に施したのは解体バラしであり、これは無法のストリートファイトみたいなものだ。つまり、フォローがない分だけ楽しい。

 論理的対立の際、圧倒的に論破した後で再構築に相当する言葉をかけてあげると尊敬というものが生れるが、そういうのはウザいから嫌い。更に追い討ちをかけることで畏怖の念を生じさせる処迄やっておきたいもの。お家に帰るまでが遠足です、みたいな。
「そういやアイツ、途中から急に喋んなくなっちゃったなぁ」
「なんでですかねぇ」
そう答えるボクの顔に“俺が来たからだよ”と書かれているのを見抜く人間は、まだそう居ない。

 感想?すっかり忘れてました。やっぱ幹ティでしょ。あんなジジイになりて〜よ。ってコレが言いたくて今迄書いてたワケなんスけどね。