奥崎の戦後はこれで終わったのか?

奥崎謙三

 東京都美術館で『ルーヴル美術館所蔵 古代エジプト展』。ピラミッドを造らせたのは?って訊かれてもせいぜいクフ王とか聖帝サウザーぐらいしか思いつかない程度の私です。あ、サウザーのはピラミッドじゃなくて聖帝十字陵か。

 なんつーか予備知識なしで観て、直感的に気になったものだけ覚えようってのがボクのスタイルなので。一点一点じっくり解説読んだってどうせ忘れちゃうんだからさ。ヒエログリフとか読めるワケじゃなし(笑)

 今回の収穫は「死者の書」と「聖眼」かな。死者の書は有名なんで今更解説要らんでしょ。まぁ、聖眼も視れば“あぁ、コレか”って言う人多そうだけど。聖眼ってのはホルス神の眼のことで、これを模ったものが護符とされていたんだそうです。ブルーの縁取りがミステリアス!


 ついでに映画鑑賞でも。
ヒトラー 〜最期の12日間〜
例によって公開中故、あまり突っ込んだことは書けないが。

 敗色濃厚となり、幹部がベルリン脱出を進言するもそれを拒否し、地下要塞内で自殺を図って・・・という基本的史実を踏まえつつ、そこに晩年のヒトラーの秘書をしていた女性の証言を元に、生々しいまでのリアリティーを加えた、半ドキュメンタリー・回想録とでも云うべき作品。

 この、ただ近くで彼を視ていた女性の視点というのが、本当の狂信的なナチ党員のそれとは微妙に違っていて興味深い。ヒトラーが作戦会議を中座した後、幹部たちが「総統はもはや正気ではない」等と言い出したり、ボロボロになりながらもロシアの国境線を抜けて地下要塞にやってきた空軍大将をヒトラーがその場で空軍総司令官に任命及び元帥に同時昇格させて戦局の捲き返しを命じる等、“末期的退廃さ”がリアルに描かれている。

「戦線から遠退くと楽観主義が現実に取って代る。そして最高意志決定の場では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特にそうだ。」
「悪い軍隊なんてものはない。あるのは悪い指揮官だけだってね。」
とは後藤喜一警部補の科白だが、この科白の意味をやっと正しく理解できたような気がした。

 また、ナチスというとどうしてもSS(“武装SS”を含む)の制服がイメージの筆頭に来てしまうワケだが、本作は主にヒトラーとその側近クラスを中心とした人間ドラマになっているので、あの独特の濃紺のような黒い制服姿は殆ど登場しない。SSフェチの人は妙な期待を持たぬように。

 とは言え職業柄、軍服のデザインやディティールに眼がいってしまった。流石独逸、正規軍のもメチャメチャ格好いい。あと、ヒトラー役の俳優さんもヒムラー役の俳優さんも本当によく似ていた。ゲッペルスや他の幹部については私が無学なのでヴィジュアル的にどうなのかは知らないが。
“戦争を起こすということ”
“戦争に負けるということ”
 この2つは共に大罪である。しかし、始める時点で大罪であったにも拘らず、勝って終わればその罪はどこへともなく消えてしまうというのが、なんとも解せない。

 最後に、西田啓先生の科白を。
「戦いは、それを始めるよりも、終わらせる方がはるかに難しい。皆さん、その事を今一度思い起こしていただきたい。」


 んで、晩飯喰って店出る前にトイレ入ったら、何故か詰まっちゃって水が溢れてきた。勿論ボクは流しちゃいけないモノなんか流してないし、トイレットペーパーだって常識的な長さしか使用してないのに。本来なら店員に文句の一つも言うべき場面だが、小じゃなくて大をやったので恥ずかしくて速攻で精算して逃げるように店を出た。もう二度と行けないなぁ(笑)


 帰宅して、夏期休暇最終日くらいにしか思ってなかったが、今日は8月15日だと気づく。確かに『ヒトラー 〜最期の12日間〜』は良く出来ていたが、これを本日の戦争作品としてしまうワケにはいかないと思ったので、随分昔に観た作品を観返す。

ゆきゆきて、神軍
 諸外国とは全く別の文脈で戦犯の糾弾をする男、奥崎謙三の実録系映画。マクロな標的としては天皇裕仁に向かい参賀でパチンコ玉を発射したり中傷ビラを撒いたりしつつ、ミクロな標的としては自らが所属していた独立工兵隊第36連隊の元仕官らに対しニューギニアでの事件の真相を暴かんと暴力を振るった男である。

 因みに奥崎の言う“ニューギニアでの事件”とは、現地で終戦後23日を経て、二名の下級兵が敵前逃亡の汚名(終戦してた訳だから)で銃殺刑になったというもの。ここで、奥崎が暴こうとするのはこの事件の更なる背景である。既に食料も尽き果てた状況であり、戦中は米兵の人肉を喰べていたが終戦になってそれもなくなったので復員できるまでの命を繋ぐために部下にあらぬ罪をきせて銃殺し、その肉を喰ったのだろうということ。

 元軍曹に対し、「私は責任を取ってきた。だからお前も本当のことを言え!」と迫る奥崎は怖い。彼が言う責任とは服役するという意味だ。当時既に奥崎は62歳。老人が老人を罵倒し殴る様には底知れぬ違和感を感じる。野坂昭如大島渚を殴ったのとは訳が違う。

 結局のところ、それが絶対的に正しいかどうかは別として、自論というか信念を持った人間程怖いものはない。奥崎はその典型だろう。キッチリ責任を取る(服役する)覚悟があるから殺人すら躊躇いなく犯す。

 実際、1956年の不動産業者・延原一男の殺害(傷害致死)でも、1969年の皇居新宮殿の新年一般参賀にて天皇裕仁に手製のパチンコで4発のパチンコ玉を発射した事件(暴行罪)でも、1976年の銀座松屋・渋谷西武・新宿丸井の屋上から裏面に天皇一家のポルノ写真(ポルノ写真に天皇一家の顔をコラージュしたもの)を約4000枚撒いた事件(猥褻図画頒布)でも、1983年の元中隊長・村本政夫宅にて本人不在のため長男に対して発砲し負傷させた事件(この映画のラストにあたる。殺人未遂、銃刀法違反、火薬類取締法違反)でも全て満期出所してきている奥崎。

 ネットに溢れるレビューなんかを視ると、奥崎はカメラを意識して殴りかかったりしていると思われる部分もあり、映画を自身の活動のプロパガンダとしているという意味で本当のドキュメンタリーではないという意見も少なくない。確かに奥崎はそうかも知れないが、少なくとも相手はヤラセなしだろう。命令でやったとはいえ実名で戦中(実際は戦後だが)の非人道的行為を告白しなければならない訳だから。

 知らなかったが、今年の6月に奥崎謙三は亡くなっていたようだ。これで本当に戦後が終わったと安堵している人間がいたとしたら、逆説的にそれはまだ戦後は終わっていないということでもある。

 また、奥崎の数々の行為に対し、“許されることではない”という論調もあるが、これも些か不正確だと思った。許されることではないからこそ、彼は毎回しっかり服役しているのである。だからこそ“怖い”のだ。私としては、信念・理念は否定すべきとまでは思わないので、革命家ではなくジャーナリストとして違法行為をしないで活動して欲しかったと思う。奥崎は少なくともこの映画当時は変人・狂人ではなかった(標的となる人物や団体以外の人間には至って紳士的対応ができていた)だけに残念である。

 あと、個人的にid:wannko0535氏が奥崎謙三の存在をどう捉えているのかを訊いてみたいところ。生きていたら鳥肌実と対決させたいとかじゃなくてね(笑)