ゴッドハンド、斯く語りき

大山総裁

「自分もブログとかしてみたくなった。コメントとかされたら楽しそう。自分なりに言いたいことは沢山あるし。でも反論とかされるのはイヤだ。でもコメントは欲しい。負けない文章の書き方ってのはないものか?」

 知人から、まるで禅問答のようなメールを貰いました、どうも僕です。暫く考えて、

矢野顕子とか谷山浩子を聴きながら書いたらいいんじゃね〜の」

って返信したら

「バカにしてんのか」

 って返ってきました。僅か1分で。“負けない文章”なんてのがあるんならこっちが知りたいよ、まぉう。


 個人的趣向が左右するような事柄について触れる場合は殆ど無意味なことだが、ある程度の公共性を持った事象について言及する際は、流石の私でも文章に気を遣う。

 選定した事象に対し、まず直感的な自論を展開。次に、その自論が真に通用するのかどうかを検討する。簡単に言うと、自分で反論を試みるのである。同じ反論でも、他者に指摘されたら多少悔しいものだが、自分で考えたことなら改むるに吝かでない。これはディベートとは違う。あれは人のハナシを聞かない合戦であり、大きな声で怒鳴ったモン勝ち合戦である。全くの時間の無駄。勝ちたきゃヴォイトレ行って下さい。

 話が反れた。これを何度か繰り返し、まとめることで、最終的には当初と全く逆の意見を持つこともあるし、同じ意見のままではあっても、その内容に深淵さが加わっていたりする。

 これが、ソクラテスヘーゲルで有名な弁証法だとついさっき知った次第。無自覚的にソクラテス級の境地に達していたと強引に言い切る勇気などないワケで、ただただ己の無知さ加減が恥ずかしい六月のはじめ哉。とはいえ、知識がないことで本質を見抜けないなどということも、また有り得ないと思う。

 極論だが、知識とは、そこに“説得力”を添えるために在るのではないだろうか。但し、時に説得力は論の正当性以上に重要であるのが人間社会。やはり在るに越したことはない。

極真会館(当時)の、マス大山こと大山倍達総裁が生前言っておられた、

「実践なくんば証明されず、証明なくんば信用されず、信用なくんば尊敬されない」

という言葉の奥深さよ。

 念のため。自論とは飽く迄も自分なりの論でしかなく、正当性を判断するのは(できるだけ大勢の)第三者であることを忘れてはならない。また、反論があれば冷静に受け止め、そこに自論以上の正当性を見出した場合は直ちにそれを認め、改めるだけの度量を養わなければならない。

 自分を信じることと他者を排斥することは全く異なる。愚なる過信が自己を高めてくれる事など何もないのだ。

論破されることを恐れよ。されど、正当なる他者を認めぬ自分なれば、大いに恐れよ。

 以上、ウンコしながら考えてみました。なんて一文が全てをヴチ壊す。説得力の大事さ、解って戴けただろうか(笑)