善惡は等価交換できない(秘密は順序にあり)


 アニメ夜話に特別ゲストとして登場した高畑監督が
「『平成たぬき合戦ぽんぽこ』は『CHECKERS in TAN TAN たぬき』にインスパイアされて作った映画です」
とカミングアウトするという悪夢で目が覚めた、どうもボクです。冗談キツイぜ、俺の脳。


 南国に新しい知事が誕生したんだとか。暴行や傷害による逮捕や書類送検の過去があっても、座禅組んで一流大学入れば知事程度にはなれる、という再チャレンジを体現してるんでしょう。前科者の星として頑張って欲しい。あれ、褒めてるよね?

 ウィキペディアを読んで、俺的に腑に落ちなかったことがある。
早稲田大学第二文学部時代(2000〜2004)の卒論のテーマは選挙活動についてで、その後政経学部に再入学(こっちは中途退学)で政治家志向をアピールというのは別にいい。が、
「前々から政治家になりたいと思っていた」
という発言の説得力の希薄さ。フライデーの件は大昔のこととしても、淫行事件(これについては店が罪に問われていて、彼は知らずにサーヴィスを受けた一客として警察の事情聴取に協力した、ということ)が1998年で傷害事件(これについても詳しく調べてみると、ただ一方的に非難すべきかどうか、という部分は見えてくるのだが)が1999年。彼の言う“前々”の定義を知りたい(笑)

 ただ、穿った見方をするならば、この“前々”はフライデーの更に前だったんじゃないかと考えることは可能だ。どういうワケか人間というのは下から這い上がる者に同情的だからだ。ヤンキー先生とか、そうじゃん。俺はナニソレって思うけど。だって地味でマジメな学生やってて地味でマジメな先生になって地味でマジメな教師生活を送ってる先生の方が本当は普通に偉い筈なんだけどなって。

 でも世間は這い上がってきた、振り幅の大きい人生を歩んでる(気がする)人を評価しちゃうんだよね。しかも、たとえ同じ振り幅でも先に惡いことやっておかないと評価が全然変わっちゃうのね(笑)。

 為政者に必要な人格ってナンなんだろう。政治的手腕さえあれば人間的に多少問題あってもいいという考えはあるし、頭から否定はしない。でもよくよく考えたら似てるんだよ、近年よく採り上げられてた
「金さえあれば・・・」
って発言の主旨と。似てるんだけど、“金さえ”発言の方が後から惡いことやった場合みたいな感じくさい(笑)

 別に自分が知事になんなくたって政治的な活動ってできるのに、って思う。惡いけど俺にあの経歴があったら、どんなに改心したって恥ずかしくてやんないと思う。知り合いのおじさんを見てるとそう思うんですよ。そのテの出馬要請とかずっと断ってる。政治家は嫌いだから、って言ってた。でも、市民オンブズマン的なポジションで不埒な政治家を許さない。勿論そのおじさんは昔惡かったワケでもなんでもない。だから、実際こういう役回りだってあるんだけどな、って思う。

 ってか、惡いコトしない、ってのは極々普通の生き方なんだけどね。県の明るい未来の扉をノック●●●できるか?って意地惡い?w