死んでいないという偶然と生きているという奇跡の・・・

 今日乗る便は、搭乗ゲートからはバスに乗ってタラップ迄移動する。その道中、ふと俺の前に立ってる女性が気になった。察するに年の頃は20代半ばくらいか。

 ボクと同じくらいの黒いロングコート。方耳だけで10カ所以上のピアッシング。なかなか格好の良いデザインの淡いピンクのレンズのサングラス。髪はアップ。バッグからハミ出たストラップを見るとヴィジュアル系が好きなのかな、みたいな感じ。

 そういう女子は別段タイプではない、ましてや顔も見てないし。でも何でこの女性を注視してしまうのだろう。そう思った矢先、バスがゆっくりと走り出した。

 その刹那、吊り革を掴んだ女性の手を見て息を飲んだ。おびただしい数の刃物(と思われる)の傷跡。古そうな傷からまだ治りきっていないものまで大きさも大小様々。

 手を見れば女性の年齢がだいたい当たると自負していたボクだが、リアルでこんな手を見てしまうと自信喪失。甲側しか見えなかったが、恐らく反対側の手首の辺りは言うに及ばずだろう。初めて遭遇したリストカット常習者(多分)。

 自分に負ける弱い人間だと罵りたい気も湧かなければ、哀れみや同情・疑似共感の感情もなく。ただボンヤリと彼女のバックストーリーを考えていた。が、やっぱ俺はそういうのって丸っきり解らねぇ。

 誰だって悩みはあるし、生きてりゃ理不尽を感じたり辛いと感じることはある、普通に。でも俺はそういうことはしない。

 けれど・・・けれど俺がそこまで“しない(できない?)”のと彼女らがそこまで“してしまう(できる?)”ことに一体どれ程の隔たりがあるのだろう。

 こういうのって案外同一線上にあったりするダケなんじゃないかな、って思った。ほんの僅かな起伏によって分水嶺を引かれた感情的衝動とその副産物。

 “切っていない”という状況や結果は、それだけで“切ってしまう”者を諌めたりできる力があるのだろうか、本当に。

 ただ、他人からすれば取るに足らない原因なのかも知れないが、それでも切らねばならぬ何かがあるのだろう。それはそれで仕方のないことかも知れない。

 “死にたいと迄は思わない”は充分“生きたい”と同義だと思う。確固たる理由なんかなくたって、死んでなけりゃ立派に生きているということだ。

 もう一度言っておくが、俺は救ってあげたいなんて考えはこれっぽっちも持ち合わせちゃいない人間だ。切りたきゃ切れ、結果本当に死んでもそれがそいつの人生。それだけのこと、なんじゃないかなと。

 数分してバスはタラップに横付けになり、扉が開いた。彼女は一歩一歩階段を上っていく。絶対的な答え導き出せずにいる俺を知ってか知らずか。

 あの傷に秘められた苦悩が彼女にとってのこの世の地獄であったとしても、実はそこ迄じゃなかったとしても、生きて俺の目の前にいることそれ自体が完璧な答えなんじゃないか、と思った。だって、彼女は生きているのだから。


 テキトーに仕事をやっつけて、ホテル。テレビつけたらやたら北海道絡みのニュースばかりやってる不思議。
「全員が道産子のカーリング日本代表は・・・」
って何でそこまで北海道を強調するのかな、と思ったら北海道に出張に来てたのを思い出した。