人に言われて初めて気づき、自己分析

草野球チームでの背番号は”魂”のつも

 チーズを買いにスーパーへ。店員に「すいません、チーズってどこですか?キレてるヤツを探してるんですが」
って訊いたら
「あぁ、キレてないですよ
あぁ、キレてないですよ
あぁ、俺がこのくらいじゃキレないぞ。
あぁ、このくらいじゃキレない。
あぁ、でもキレさしたら大したもんだろうな。
あぁ、でもキレさしたら大したもんですよ。
あぁ、でもキレさしてからじゃないか?
あぁ、キレさしてからじゃないか?
あぁ、1つ言っとくぞ、今度俺がお前のお前のお前だ !!! (そして間髪入れずコールされた時の片手上げポーズ)」
・・・店員かと思ったら長州力でした。どうもです。まだやります。


〜今日の出川哲郎デガテツ
やはり内村ウッチャンを「チェン」と呼ぶ。


 ネットが、私に個としての存在意義を与えてくれているという実感を覚えるようになったのはチャットを始めたあたりだ。

 うろ覚えの固有名詞で溢れかえった脳味噌という名の脆弱性極まりない内部記憶装置は、ネットという補完機能を得なければ、私に「訳の解からん事ばかり言ってる人」という憐れな称号を享受するのに一役買っていたことだろう。

 固有名詞こそうろ覚えなことが多いが、記憶そのものはかなりレアだったりしてるらしい。自分じゃ気づかなかったが。要は、
「Aについてどういうコト知ってる?」
という問いかけに対し、皆がBやCという関連事項を出してくる中、私は往々にしてWとかXというマイナーネタばかり思い出してしまっているようだ。しかも咄嗟に。

 今迄はあまり正確な情報を提供できる訳ではない(あまりにもいい加減なままでは話したくない)ので割りと封印してきた。それが、4年前にPCを触るようになり、3年半前からはインターネットに接続するということを知った途端に状況が一変することになる。うろ覚えの記憶もネットで検索して補完することで立派なレア知識へと昇華させることができると判ったのだ。

 “A B“や”A C“という検索ワードの組み合わせで辿り着ける情報がDやEという凡庸なレヴェルであるのに対し、”A W“や”A X“が導き出すYとかZという情報はかなりレアだったりするらしい。もし、そうした重要な意味を持つ検索キーワードWやXそのものがうろ覚えだったりしても、或る程度の輪郭さえ覚えていれば簡単に補完できることも含めてネットの強み。

 検索のスキルが高いことと、検索対象に関係するレアなキーワードを知っているということは全く違う。いい大人になるまでアナログ一直線であったことも然ることながら、他人と違う視点で何でも視てるような性格だったのが何よりの強みだったようだ。

 一見して関連性の無い点と点が有機的な繋がりを持った瞬間の心地よさは何物にも代え難い。とはいえ、膨大な記憶力を有している訳ではない。「お前の知識は応用100点の基礎0点だな」と言われたことがあるが、皆がBやCを知っている代わりのWやXであることが非常に多いのだ。

 また、そうして得られたYやZという知識も、レアでこそあれそれ自体はトリビア以下であったりすることもまた少なからず。